三本の矢からサンフレッチェ広島


家の資料整理をしてたら、2年前くらいに広島城で開催された「三本の矢物語~毛利元就からサンフレッチェ広島まで」の資料が出てきました。三本の矢とサンフレッチェ広島の関係はサンフサポなら言うまでも無く知っていることだけれど、詳しくは知らない人もいると思うので転記しておきます。

以下、資料の一部内容です。


三矢の訓とは

「三本の矢の逸話-三矢の訓」は、毛利元就が臨終に際して、長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景を枕元に集め、矢は一本では折れやすいが三本では折れにくいことを示して、兄弟三人が一致協力するように言い聞かせるという逸話で、戦前の教科書などに掲載されている。

三本の矢からサンフレッチェ広島

1991年12月26日、Jリーグ誕生とともに広島に誕生したプロサッカーチームは、日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(=矢)」を合わせて「サンフレッチェ広島F.C」と名づけられた。

名称は一般公募され、応募全7691件の中で、応募が最も多かった「矢」や「三本の矢」を採用することとしたが、英語の「スリーアローズ」はすでに商標登録されていることから、「サンフレッチェ」という造語を製作した。「三本の矢」にこだわったのは、応募点数が多かったことの他、Jリーグが理念とする地域密着型スポーツクラブとして誕生したチームにふさわしく、広島ゆかりのネーミングを選びたかったことがあげられる。また、選定作業の折、「紫=パープル」を検討した時期もあったが、こちらも戦前の広島中学以来伝統のある広島ゆかりの名称であったが、この紫はチームカラーに採用された。名称選定にまつわるこれらの話には、当時の設立準備室及び関係者の苦労がしのばれる。

チームのエンブレム、ユニフォームなどはその多くが三本の矢をモチーフとしている。また、サンフレッチェ広島の名称誕生により、毛利元就ゆかりの安芸高田市吉田町が町をあげて必勝祈願を誘致し、1992年6月3日に元就ゆかりの清神社で三本の矢を奉納する必勝祈願が行われた。その後の交流の中で、新たなプロジェクトを模索していた吉田町と練習場など拠点施設を探していたサンフレッチェ広島の思惑が一致し、吉田町にユースの拠点施設、トップチームの練習場である吉田サッカー公園などが整備された。「三本の矢」の縁で両者の関係は深く結びついており、吉田はサンフレッチェ広島の「マザータウン」と言われるまでになっている。

「毛利元就の三本の矢の話」から「サンフレッチェ広島」へ。その誕生とともに、平成の新しい「三本の矢」の伝説が始まった。


最後の文章はちとクサイけど(笑)、サンフレッチェって改めて、いい名前つけたな~って実感します。ちなみに「三本の矢」の話しは有名だけど、毛利元就が本当にその物語のような話をしたかどうかは資料が残っておらず、わからないそうです。ただし、三本の矢の話に近い文書は「毛利元就自筆書状一通」(毛利家文庫405号)いわゆる「三子教訓状」として実在しています。

その原文は、書くとめんどくさいというか書けないので、資料のスキャン画像を貼っておきます。

三子教訓状 P1

三子教訓状 P2

三子教訓状 P3

三子教訓状 P4

はっきり言って、僕は読んでもなんのこっちゃかわかりません。古文は苦手だったからな~。ただ、これがサンフレッチェというチーム名の由来である三本の矢の話につながったとされている毛利元就が書いた手紙の原文って考えると、ぞくぞくします。





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